『アンチキーマカレー運動』
「あんたの気持ちはよくよくわかる」
そう言ったのは大きな体をしたウシだった。彼の太腿はドラム缶ほどの太さがあり、お腹はぷりぷりとした脂肪でたっぷり太らされていた。彼は店の壁にその大きな体をよりかからせながら続けて言った。
「お客というお客にひっきりなしにキーマカレーを食べさせて、あわよくば2杯目、3杯目と首尾良く注文させ、ほとんどギャンブルに近い金額を支払わせてしこたま儲け、うちに帰ってクマさんのぬいぐるみを娘たちに与えてやる。そんな生活がしたいのだろう?」
そのウシは厳粛な顔つきで言った。その厳粛さと言えば、医師が手術台に向かうときに見せる顔つきそのものであり、娘どころか妻さえいないコックでも黙って頷くほかないものだった。
「あんたの要望はこうだ。だから、挽肉を提供させてくれ、と」
コックは、ええ、ええ、と頷いた。何でもいいからとにかく早く挽肉を使ったキーマカレーの仕込みをしておきたかったのである。
開店までもう20分を切っていた。
「挽肉がなければだめだ、とあんたは言う」
ええ、ええ、とコックは同意した。
「そう、すべてのものには倫理規定があるからだ」とウシは言う。
何のことかわからぬまま、コックは恭しく同意した。
「すべてのものに倫理規定がある、そう税務署員並みの厳粛で欠くべからざる倫理規定というものがね。それはドラム缶からキーマカレーまで、つまり何から何まであるというわけだ。ドラム缶たるもの、貯蔵と輸送に使いなさい、またキーマカレーたるもの挽肉をたっぷりと入れなさい、とね。いいかい、この世界は厳粛さ、手術室くらい厳粛に回っている。いいね、たとえ口髭をたっぷり生やしたインド人が昼夜大量のスパイスを浴びつつ、ナンを振り回しながら手で作っても、挽肉が入っていなければそれはもうただのカレーで、キーマカレーではないんだよ!」
もうあと10分で店を開かねばならない時間だった。
「お気持ち程度の挽肉でいいんです……」とコックはほとんど泣きながら懇願した。
「いけないね」とウシは言った。
「キーマカレーたるもの挽肉をたっぷり使う、とね。たっぷりとは何か? もちろん、たっぷりにもたっぷりなりの定義なり規定があるが……」
ウシは咳払いをしてから、ぺっと唾を地面に吐いた。
「あんたらは言ったぜ、『食用肉として体を提供してくれるならば、生きている間と、そして死後の世界に、ワイルドでエッチな夢を見させてやろう』とね。だが現実はどうだ。胸糞悪いでっちあげだったよ」
「困りましたな、ワイルドでエッチな夢を約束させたのは僕ではないのですからね。それは酪農家に言ってくださいよ……」
「おいおい、それはまた胸を刺す言葉だね!」
ウシはもう一度唾を吐いてから叫んだ。
「おれたちの肉を使ってワイルドでエッチな夢を見ているのはコックのあんただろう!
とにかく挽肉を提供する気は、もうウシどもの連中にはないんだ。何が挽肉だ、切るだけでは満足いかずに、細かく切って潰して名も知らない誰の肉かもわからんやつといっしょくたにして挽いてしまう。そのうち今度は肉をジュースにしようなんて言い出すんじゃないか。そんなことなら心筋梗塞になったほうがまだマシだね。いいかい、いい加減おれたちをもてあそぶのをやめたらどうだね!」
ウシがそう言い放った時、ガラガラガラと店の扉を開けるものがあった。少しばかり気の早いお客か、とコックはおそるおそる首を伸ばして見ると、カレー皿をいつも提供してくれている皿商人が立っているのであった。
「やあ、ウシさん」
「どうも、こんちは」
とひとしきり挨拶があったのち、皿商人はコックをきっと睨みつけた。
「お取り込み中のところ申し訳ないが、あたしは今後一切あんたにカレー皿を提供しないとここに宣言させてもらうよ」
「そ、そんな、いったいなぜです!」とコックは叫んだ。
「カレー皿を売りまくっていればワイルドでエッチな夢が見られると聞いてやっていたが、どうも見るのはカレー屋の胡散臭い店主の顔ばかり。目を皿にしてワイルドでエッチな夢を探したが、どこにもありゃせんよ。あたしはもう金輪際カレー皿なんていう茶色く汚されるためだけの皿は作らないよ」
なんだって! コックは声にならない叫びを上げた。
さらにどうだ。カレースプーン職人とスパイス職人と唐辛子農家と玉ねぎが扉を開けてずかずかと入り込んできたかと思うと、コックへの提供をやめてやる、と申し出たのであった。彼らもまたワイルドでエッチな夢を約束され、果たされなかった被害者なのであろう。
コックは八方塞がりになり、激甚の悲しみのために膝を震わせた。
「どうやらあんたは、キーマカレーの規定を満たす食べ物を提供する資格を失ったらしいね」とウシが代表して言った。
そう、挽肉もカレー皿もカレースプーンもスパイスも玉ねぎも、そのどれもがキーマカレーと呼ぶために必要なものばかりなのだ。
そうしてあらゆる方面からがくがくになるまで責め抜かれたコックは、結局、彼ら全員を説得してキーマカレーをやる熱意もなく、アンチキーマカレー運動による233人目の犠牲者となったのである。開店時間1分前に彼らはみな、散り散りになって消えてしまった。コックはコック帽を地に叩きつけて元コックとなった。コック帽職人が来ないだけまだ状況はましなのかもしれなかった。
ガラガラガラ。
最後に入ってきたのは、よく店にやってくる常連のお客だった。元コックはお客に一連の騒動を打ち明けていっしょに泣こうと思った。
しかし、しかしだ!
「よくよく考えたんだがね」と彼は開口一番に言う。「あんたに食べ物の対価として金を支払うことをやめることにするよ。目が覚めたんだ。偉いのはあんたじゃない、ウシやカレー皿職人のほうがよっぽど偉いよ」
「そんな馬鹿なこと!」
「それにね、コックが帽子を脱いだとなれば、もはやここは食事を提供する店じゃない。となれば、厨房にある鍋も炊き出し同然というわけだ」
そう言うとお客は厨房の大きな鍋を引っ張り出してきて、よいしょ、なんて言いながら大鍋を引きずって出て行った。
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