カンガルーホテル
こんなに朝早くに目が覚めたのはいつぶりだろう?
しかし、それがこのようにおそろしい腹痛によって叩き起こされたとあれば、清々しさのようなものなんて微塵もない。
もし腹痛も、あるいは頭痛も腰痛も、首の違和感も嘔吐感も布団の些細な膨らみの不満も一切なければ、僕はもっと朝の5時に目覚めたという事実について喜びを覚え、あわや恍惚の発狂をあげたかもしれない。
しかし、腹の痛みによって汚れた犬のようにのそりと起き上がった僕は、そのような気持ちに積極的になることはできなかった。
そして、数分ののちに僕は嘔吐した。
しかもただの嘔吐じゃない。嘔吐と呼ぶにはあまりに肉体的にきつかったし、吐き出すまでの時間が長すぎた。
口の中から飛び出たのは、カンガルーだった。一匹のカンガルー。
尻尾も立派なものだったし、よく眺めると腹に袋を有していた。ホテルの一室には、僕が吐き出した代物がまるでアメニティのようにごく自然に存在していた。カンガルー自身もそのことを自覚しているのか、ドライヤーや箱ティッシュと何ら相違はないかのように振舞っている。具体的に言うと、加湿器の横、スリッパのすぐ後ろに足を置き、小さな時計を眺めている。
いたたた……
カンガルーを吐き出してもなお、僕の腹を襲う鋭い痛みは消え去らなかった。
とんでもない腹痛である。いや、まさか、痛みの原因は体内に侵入していたカンガルーだったのではないのか?
なぜ痛みがおさまらない?
いや、そうか、確かに闖入物を取り除いたからと言ってすぐに痛みがぱっと消失するなんてなんだか都合の良すぎる願望なのかもしれない。
と言うわけで、僕は治まらぬ腹痛に耐え続けなければならなかった。カンガルーは床の具合を確かめるみたいにぴょんぴょん跳ね回った。
ドスドスドス。
腹痛はとめどなく僕を見舞う。消化不良の状態でチンピラに袋叩きにされているような気分である。
うう……
カンガルーは跳躍を繰り返しながら、時折、尻尾でぴしゃりと床を叩いた。それが振動になってさらに僕を苦しめる。
うう……痛い……
そう言って間もなく、僕は次のカンガルーを体内から吐瀉した。今度は案外するっと口から吐き出すことができた。
今度は筋肉質な体の雄カンガルーである。喉の奥の不快感、ぬめりと酸っぱさとで僕はせいぜい喘ぐことしかできない。
しかし腹の痛みはまるでおさまらない。
フロントに電話をかけることにした。
電話、電話、電話……。どこだ……。
なんと、不運なことにさっき出現したばかりに雄カンガルーがぺろぺろと舐めているではないか。僕は腹をおさえながら彼を払いのけ、受話器を上げた。
プルルルルルル……はい、フロントです、いかがされましたか?
む……腹が痛いんです……うぐっ、さっき吐きました……冗談じゃないです、吐いたんです、すみません……はい……むっ……すぐ、来てください……む……6階です……611……お願いします……
フロント係の人間が僕の部屋にやってきたのは5分後だった。僕はその間にすでにカンガルーを体内からもう3体吐き出していて、部屋の中はちょっとした動物園のようになっていた。
「これはいったい?」フロント係の男。
「見ての通りです。吐いたのです」
「何を?」
「何を? カンガルーをですよ」
「部屋の中にカンガルーを持ち込むこと自体はオーケーです。カンガルーを吐き出すことに関してもとやかく言いません」フロント係は眉をしかめた。「しかし、いけまえんねえ、お客さん、まだ料金がひとり分しか支払われておりません。いいですか、体長100センチを超えるものは成人として扱われます。それ未満は子ども料金です」
「おいおい、バカなことを言うな……うぐっ……むっ……うう」
フロント係は、部屋の中をミステリアスな表情でうろつくカンガルーの頭を順番に撫で「今のところ5人分の料金が未払いです」と言った。
うぐうっ……うげえ……
「6人分です」フロント係はお辞儀をした。「我々はこの仕事のプロですから」そう言い残すと、男は丁寧に扉を閉めた。
その後も順調にカンガルーを吐き続けた。
しかしそれだけにとどまらず、雄カンガルーと雌カンガルーが好き勝手に交尾を開始し(僕にろくに許可取りもせず)、赤ん坊がとめどなく生まれてしまった。
おかげで僕は滞在料金を支払うことができず、カンガルー共々ホテルで3年間のただ働きを強いられることになった。
カンガルーたちは案外うまくやっているみたいだった。
今でも従業員は無数に増え続けている。
そうしてカンガルーホテルは有名になった。
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