コック長の美学
「アオダイショウの旦那! これは大変ですぜ!」
ことの始まりとしてまず第一に、気の弱い若手の給仕が叫びながら厨房に飛び込んでくる。
「このダニ男め!」
コック長のアオダイショウが敵意いっぱいに唾を地面に吐き捨てた。彼はつい2日前に脱皮を終えたばかりで、万全の体調とは言い難く、神経質になっていたのだ。コック見習いの連中の間ではもっぱら、今回は極度の乾燥のために脱皮不全だったのだ、というまことしやかな噂が囁かれていた。
詳細を尋ねられると、給仕はおずおずと進み出て言った。
「お、お客が大変勝手なことを言うんで……」
コックのアオダイショウは蛇くらい長い菜箸をフライパンにカチンと当てて、続きを話すように促した。
「うちの名物は何と言っても水槽を泳ぐジンベエザメです。それもおそろしく生命力のある弱体化を知らないジンベエザメですぜ。今も、頭と左ヒレをちょんぎられて刺身にされたジンベエザメが、胴体と右ヒレだけでゆうゆうと泳いでおりますぜ。それを指差してお客がこう言うんですよ。『頭をよこしな』と。いつもなら数十匹をうようよ泳がせておりますが、ただ、今は仕入れ前ですから他に反吐が出るようなシュモクザメと水牛しかいないという始末でして……」
アオダイショウはぶんぶんと首を振った。
「そんなお客無視しろやい! ないものはない、そうだろう? なんだ、尻の青い新人給仕君よ、アオダイショウは脱皮するとジンベエザメの頭をぽんぽん産み落とすようになるとでも思っていたか?」
「コック長の旦那!」と給仕はすがるように言った。「とんでもございません! そのようなことなぞ……考えたこともございません!」
「わかったらさっさとお客を黙らせろや」アオダイショウはそう言い捨てると、フライパンで給仕の尻をペンと叩いた。給仕の安い生地のズボンが熱々のフライパンのために燃え上がり、瞬く間に燃え滓となって焦げ落ちた。鼓舞された給仕は厨房から駆け出した。
しばらくすると、狼狽と不安に満ちた走る音が厨房に近づいてきた。
もちろん足音の主は気の弱い若給仕だったが、彼はもうほとんどこけつまろびつ厨房に転がり込み、厨房を入ってすぐのところに備蓄されていたキクラゲの入ったドラム缶に正面衝突を果たしてしまった。
おかげで、乱視気味であったことをかねがね申告していた給仕のぼやけがちな視野は遂にもぎ取られてしまい、脱げた靴とエプロンは永遠の闇に消えてしまったのである。
彼はキクラゲのドラム缶に背をこすりつけながら、失われた王国の敗残兵、といった具合に絶望的に肩を落とした。
アオダイショウのコックとどうしてもジンベエザメの頭部を食べたいお客とにぎゅうぎゅうに挟まれ、地下鉄の売店で売っているような安いサンドウィッチのレタスみたいにへなへなに萎れてしまっているのだ。
給仕は少し身体を休めてから、何とか顔をあげて言った。
「お客にジンベエザメの頭部が品切れしていることを伝えたのですが……納得できないそうです……」
「また君か」とアオダイショウが二度目の唾を吐き捨てた。
「お客はこう言うんです、『まさか孔雀の精巣を持ってこいと言っているわけじゃないんだ、ジンベエザメの頭部だぞ? ジンベエザメを売りにしたおまえの店の看板を引き裂いて燃やしてやろうか!』と……それから脅迫とばかりにライターを出して、じゅっと……」
見ると、若給仕の両の袖口は燃やされてしまっているのであった。
もはや客による従業員暴行であったが、しかし給仕の制服の燃えやすさや繊維の脆さにこそ問題があると言われれば、確かに、簡単には否定できないのかもしれなかった。
「ところで、その袖は両方を一気に燃やされたのか?」
「え?」と給仕は思わず聞き返した。
コックのアオダイショウはもう一度同じことを繰り返した。
「い、いえ……お客がライターを出した際に不意に左の肩口だけが燃えてしまいましたが、それがお客の美学に反したらしく、『アンバランスだ』と、右のほうまで……」
すると途端にアオダイショウは神妙な顔をして考え込んだ。
「美学に反している……。なるほど、その美学はジンベエザメにも通じるのではないかね。つまりは、水槽で泳ぐジンベエザメの左のヒレだけがなくなっていていいのか、ということだ。右だけが残っている。おい、君、お客の美学を盾にして右のヒレで手を打つように言ってこい」
するとどうだ、お客はその説得に大変納得し、右のヒレの刺身に大いに満足することとなったのだ。
ただし、ただしである。若く気の弱い給仕はその後、神経質になっているコックのアオダイショウによって退職するように言い渡されてしまった。
理由は2点。
第一に、妙に剥がれていく着衣物が、脱皮不全を思わせる。
第二に、ジンベエザメの首がなくなっているのに、若給仕の首が飛んでいないのが、アンバランスであり、美学に反する。
問題は、ジンベエザメとは異なり、首がなくなっても生き抜いていけるような生命力が若給仕にはないということである。
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