内臓の間に身を潜めてしまった内なる欲望
今日は恋人の日と言って、恋人間や夫婦間でお互いにプレゼントをする日らしい。
まずはパートナーに気づかれないように欲しいもの調査を開始するのがいいだろう。
しかし注意が必要だ。
プレゼントを買いたいからと言って「なんか最近欲しいものある〜?」などという直球で情けない質問をするという安直な思考回路は、いますぐ肩パットなんかといっしょに街一番の焼却炉で燃やしてしまったほうがいい。
プレゼントする予定が、あまりに見え見え、丸裸になって喉の奥からせせり出してしまっている。
恋人に勘づかれると、往々にして、少し高いものをせびってみようか、と悪どい本性を剥き出しにしてくるはずだ。
それに、こういった場合に多いのが、高いものをねだればねだるほど、いざもらった時の喜びが中途半端という結末が予測される。
得をしようと思わせてしまってはならない。
得をしたいと思って出てくる欲望に、ろくなものはないからだ。
例えば食べ放題に行った時に、損得概念が頭を支配するあまり、美味しく食べられなかった経験も少なからずあろう。
損得がちらついた途端に、心の奥底に眠る欲望は頭を引っ込め、その深淵から出てくることはない。ただでさえ奥底にいるのに、内臓と名のつく従僕器官の間に隠れてしまうのだから七面倒臭いのだ。
ただし、眠る欲望は見えなくなっているだけであって、確実にそこにいる。
いるからこそ、その欲望を叶えられないことが満たされない気分を無意味にも生み出してしまうのだ。それが一番厄介なことだと言ってもいい。
ではどのような質問が適切だったのか?
答えはこうだ。
「欲しいもの」ではなく「困っていること」を聞くといいのだ。
人間はあまりに高度に発達した便利な社会に住むあまり、ほんの些細なことがストレスになりがちである。そうしたストレスのひとつひとつが、プレゼントにつながる小さな種だ。あいにく、その種は発芽すると大変醜い姿をするようになり、人体に有害な毒を含むという。太陽光や水を注いで発芽させてしまう前に、文明のテクノロジーによってぐしゃりと叩き潰しておくのが今後のためだ。
しかし、しかしである!
しかし、鋭い人ならすぐに気づいてしまうのだ。
「困っていること」を聞いた時点で、すでに何かプレゼントされるかもしれない、とやすりがけしたみたいに勘の鋭いやつがいるのだ。
こういうタイプはもっと厄介だ。
例えばこちらにプレゼントをする意思がまったくなく、ただ単純に会話テーマのひとつとして困っていることを聞いただけであっても、対話を続けていくうちに、いつの間にかプレゼントをしなければならないような状況に追い詰められている、ということがあるからだ。
「もし○○があったら、解決するのになあ……」と上目遣いで言われたりしてみろ、もはや、買うかさもなくば死、の二択を迫られているようなものではないか。
つまり、安易に「困っていること」を聞くことも、また、地獄なのである。
どうやらもっと根本に遡る必要があるらしい。
気づかれるリスクを最小限に抑えながら、相手のストレスのもとや欲望を探り出すためには、どうしたらいいだろうか?
そういう場合はこのような質問が好ましい。
「最近見た夢を教えて」
これが実にいい。
これは内なる欲望を覗くのに実に最適であり、なおかつ、夢をよく見ることは眠りが浅いことを意味するため、ストレスを抱え込んでしまっていることを早々に導き出せるからだ。
さらに、人は生来、誰かに自分しか知り得ない情報を語ることに、並々ならぬ快楽を感じる生き物である。舌が疲れて麻痺するまで、聞いてもいないディティールまでぺらぺらと喋り出すことだろう。
もしパートナーが晩御飯を作ってくれるのであれば、次の日は水分を多めに用意したほうがいい。疲弊した舌が正常に働かないため、味覚が落ちて味が濃くなる可能性が高いからだ。
さて、夢を語り出したら、ふふん、なんて言ってちょうどいい相槌を挟みつつ、夢に現れるストレスの根源なり、欲望の根源なりをそれとなく覚えておくといいだろう。
しかし、しかしである。
もはやどこにでも罠が潜んでいると考えた方がいい。あまりに鋭い眼光でもって夢の話を聞くのも良くない。他人の夢の話を、誠心誠意、熱心に真剣に聞く人間なんてどこにも存在しないからだ。
夢を聞く時は、夢を聞く相応の態度で臨むのがいい。
ちょうど、ウニの生殖活動とか、子育てを終えた閉経後のカンガルーの袋の扱いについての話を聞くくらいの温度感でいい。
もしカンガルーの袋について身を乗り出してしまったのなら、オーストラリアにでも行ってくるといい。
真剣に聴きすぎれば、「夢」から欲望を吸い上げようとしていることに気づかれ、プレゼントの悪臭を嗅ぎつけ、でっちあげを始める可能性がある。
さて、パートナーはどんな夢を見ていると答えるだろうか?
ストレスは何で、欲望は何であると夢診断できるだろうか?
日々の家事や育児、お通じがストレスなのか?
あるいは、自由や地位や名誉を欲望しているだろうか?
パートナーは言う。
「A(※僕の本名)が丸裸で追いかけてくるの……なぜか、股間に刃物がついていて……ものすごいバキバキな眼をしていて……私は逃げるしかなくて……でもなぜか小型爆弾を手に持っていて……Aに向かって投げたりしながら……云々」
うん……なるほど。
その後も延々と僕が丸裸でパートナーを追いかける夢話が延々と繰り返されていた。
見ている夢の話を聞けば聞くほど、「僕自身」がストレスであることは間違いないらしい。
そうだね。僕がストレスの根源だ。欲望はまさに、僕から逃げることだろう。
パートナーは長ったらしい夢を語り終えると、自分で言っておいた癖に、汚らわしい野獣を見る目を僕に向けて、体をぶるりと震わせて立ち去った。
僕にとってそれは死刑宣告に他ならなかった。
詳細な罪状を、公然で読み上げられないことが、唯一の救いか。
こうなれば僕自身にぐしゃりと潰れてしまう他あるまい。できることはやった。力は尽くした。
パートナーがそう言うのだから、仕方ないじゃないか、と。
困っていることの原因が僕なのであれば、僕を潰せばいいまでだ。
僕は身分証をシュレッダーにかけ、戸籍を抹消し、体毛をすべて剃り落とし、ガスバーナーで指紋を焼き、歯ブラシを焼却炉に放り投げた。
そして海に出ると、得意の平泳ぎで北上することにする。
直にパートナーも行方不明届けを出すだろう。
あるいは困りものがなくなって晴れがましくも口笛を吹きながら赤飯を炊いているかもしれない。
今度はもっと深い睡眠を楽しむことができるようになるかもしれないし、睡眠が浅くても、子うさぎを追いかけたり、100羽の鳥に空の旅に連れていってもらうような、人畜無害でいかにも平和な夢を見るのではないだろうか。
その結果、パートナーの頭を支える枕が、冷や汗や涙で湿ったりせず長持ちするのであれば、僕はもう本望である。
そうして、僕を僕たらしめるものは消失したのだった。
しかし、なくなったものを探すのが人生というもの。
僕は今、インドで自分を探しているところだ。
名もなき多くの人間が「自分」というものをこれまでインドで見つけたという。
人は生きていく過程で、少なからず自分というものをすり減らし、削りながら生きている。
必要なもの、不要だと思われるものを取捨選択し、あるいは外的な環境によって剥ぎ落とされながら成長していく生き物だ。
おそらく、これまでの人生において少しずつ削り落としてきた自分の粉のようなものが、粉塵といっしょに季節風によって吹き飛ばされ、インドの地に辿り着くのだろう。
そうした粉が、カレーのスパイスに複雑な味付けを加え、ナンの焼き上がりをよくする。
その複雑な味わいがインド人の脳みそに数学的な疑問を生じさせ、彼らを優秀な数学者に仕立て上げていく。
不衛生なガンジス川の水による影響で、腹を壊すことしきり。
睡眠は浅く、脆く、枕はティッシュみたいにぺらっぺらだ。
僕は、僕を探している。
身分証や指紋なんかに裏打ちされる「自分」ではない、真の自分を。
しかし今のところ、ガンジス川の底にこびりついてもいなければ、牛の下敷きになっているわけでもなく、どこにも落ちていない。
今僕が誰かに「何が欲しいか?」と問われたら、いったい何と答えるだろう?
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