妻は別居中
「つまりさ、君は妻と別居しているけど、でも奥さんと同じ家に住んで同じ風呂に入って同じ釜の飯を食らってるってことだよね?」
「まあ」と男は言う。「そういうことになるよね」
ふうん、と僕は思う。妻とは別居しているけど、奥さんとは同居している。「ちなみに伴侶のほうはどうなんだい?」
男は「伴侶か……」と言い、斜め上を眺めながら少し考える。「たぶんだけど、伴侶なら数ヶ月前に錆だらけの結婚指輪を浴槽のふちに置き去りにして以来会っていないかな」
「つまり、伴侶とは別居したということかな?」
「いや、彼女とはそれっきり」
「なるほどね。ところでさ、今は誰と住んでいるんだっけ?」
「今はね」男は指を一本ずつ折ったり、戻したりしながら、4と5の間を行ったり来たりした。「たぶん25人。で、25人がそれぞれ何と呼ぶべき存在かを事細かくいちいち詳細まで君は聞くのかい?」
「いや、遠慮しとくよ、僕にとっては伴侶も配偶者も連れ合いも家内も皆同じようなものだからね」
「まあ、君にとってはね」
我々はたまたま入った定食屋でおよそ10年ぶりに再会したのだった。
彼とは高校時代の友人で、彼はとにかく女の子という女の子にしこたまモテることで有名だった。
そして彼はおそろしく気前がよく懐が海よりも深い男だった。彼はよくこう言った。
「ひとりの女性についてじっくり考えて、自分の気持ちがどうとか、今の気持ちは恋愛的な気持ちだ、とか、友人以上だけど恋人には向かない性格かな、とか結婚するには気苦労が多そうだな、とかそういうのをいちいち事細かに考えるのは俺には向かないんだ。そういうのを、恋の骨折り損って言うんだ。自分のことを好きでいてくれる人をすべて受け入れない原因が愛にあるとするならば、愛なんてものは必要ない」
そういうわけで、彼は言い寄ってくる女との結婚を片端から承諾して回った。
今では一夫多妻制の認められる国に住んでいるらしい。
「そういえばこの間、うちのワイフがさ、嫁さんと殴り合いの喧嘩をしちゃってさ、もう困った困った」
彼がワイフと呼ぶのは、日本人ではない異国の地で生まれ育ったおそろしく色黒の女性だった。
彼はワイフと呼ばれている女がヘロイン中毒者であるということを知っていた。
それでも懐の深い彼は異国の女を自分のワイフとして迎え入れたのだ。
「喧嘩しちゃったんだ」
「そう、何せ、僕を入れるとひとつの家の中に大の大人が26人すし詰めになっているわけだからね」
「すし詰めなんだ」
「そう、でもさ、家庭内別居もちらほらいるんだ、たぶん4人かな? 愚妻と細君と夫人と女房」
「その4人と顔を合わせることってあるのかな?」
「滅多にないね、会ってもかける言葉もない。特に愚妻っていうやつは本当におそろしく愚かなやつなんだ」
「名前だけあるね」
「そうなんだ、この間なんて浴槽でカミさんを溺死させようとしたんだぜ? 信じられるかい? でも今更誰かを叱りつけようとか追求しようとか考えたくもないんだ。だから気にしないことにした」
ふうん、と僕は言った。
「それに浴槽は結婚指輪で溢れている。まったく、彼女たちは風呂に入るたびにリングをつけ忘れて帰ってくるんだ。これも問題のひとつさ」
僕はやれやれ、といった具合に肩をすくめた。
「しかし、この店の鯖定食は美味いな」
ああ、と僕は言った。高校生の頃によく食べた。男という哀れな生き物はお袋の味というものに無性に惹かれてしまうらしい。
「そういや、母親とはどうなったんだ? 何か混み入った問題があるとかないとか、噂で聞いたけどさ……」
「それがさ」と男は頭を抱えながら言う。「母親と喧嘩したんだよ。お前をそんなちゃらんぽらんに育てた覚えはないって言われて、で、お前みたいな母親に育てられた覚えはないってね、言い返してやったら、それを見ていたお袋と母さんとおかんとママが怒ってさ、ちょっとした騒ぎになったんだ。危うく袋叩きにされるところだったね」
「お父さんは何て言ってるの?」
「お父さんは何も言わないけど、親父と父親がうるさくてさ」
「まあ、君のママと親父の間に生まれた僕でよければ相談に乗るよ」
この世界は実に複雑怪奇だ。
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